1999年1月7日 ファーイーストよりごあいさつ

 ホームページ開設ということで、今日はさっそく写真をupすることにしましょう。

 まずはファーイーストコネクションからです。
 私がこんなふうにインターネットごっこできるのも、このオフィスに負うところが大きいのです。

 場所はコミューンのメーンロードを書店のところで左折したいちばん奧。コンピュータサポート室の一角を占めています。
 机が七つにソファースペースがあって、なかなかの居心地。日韓台三国のお世話係りが常駐しています。

 そこに、今日数えてみたら、ラップトップコンピュータが6台。(うち5台が日本班のもの)。けっこうパソコン好きが集まっています。またパソコンを練習がてらオフィスの手伝いに来る人々もいて、連日なかなかのにぎわいです。

 写真はそんな日常のひとこま。左端がファーイースト三代目社長のマハスック、その右側が修善寺のキヨタカ、その右奧の女性がOshoジャパンのアヌパ、右端がOshoメーリングリストでおなじみのフィラク、一番手前が私ぱるばです。(ちょっと露光不足の点はご容赦を)
 社長マハスックは来訪日本人のケアで八面六臂の活躍。キヨタカは日本でのセレブレーション企画などのためにEメールを利用。アヌパは先日東京からツアーを引き連れての来プー。フィラクは現在ここプーナでメーリングリストを運営しつつ情報を発信しています。
 ほかに、たまたま写真には写っていませんが、ラキバやディビヤ、マヤといった「女性秘書」もいます。

 コミューンに関すること、よろず相談に乗りますので、みなさんも来プーの折りには、ぜひ一度ご来所ください。

 またメールでの問い合わせも受け付けています。アドレスはmahasukh@osho.net、または私ぱるばparva@din.or.jpまで。


1月10日 キヨタカインタビュー

 あいかわらず話題に事欠かない、お騒がせ男スワミ・キヨタカ。今回もまた例外ではなかった。(つまり、帰国前日に、航空券パスポート現金など一切合切盗まれたのだ)
 本来なれば6日に帰国予定が、そのせいで一週間ほど延期になった。そこで暇のできたキヨタカに、当HPはインタビューを試みるのである。
 以下はそのあらましである。

***     

  キヨタカを見ていると、オレはいつも感心するのだ。よくやるな〜、オレじゃとってもできないな〜、と。

 1990年に東京・荻窪にOshoオアシスを設立して以来、足かけ9年にわたって、様々なグループやイベントのオーガナイズにあたってきたキヨタカ。
 そんな彼にとって、今回の盗難事件はひとつの画期だったという。というのも、彼自身、また日本に帰って仕事を続けるか、このままプーナにとどまって楽しく暮らすか、ちょっとした迷いがあったのだ。ところが、盗難に遭って帰国不能となるや、「やっぱりオレは日本に帰って仕事をするしかない」といった使命感みたいのが、ムラムラわいてきた。

 その使命感とは、いったいどんなものなのだろうか。
 今回プーナに来て、キヨタカはOshoコミューンのすばらしさを、今更ながら実感するのである。
 「Oshoが世を去ってコミューンは教団化した」と批判する向きもあるようだが、こちらへ来てみて、それが当たっていないことがわかる。
 集合的レベルでOshoは存在する、換言すると、コミューンを形成するひとりひとりの中にOshoが存在している ― それが手に取るようにわかる。ここはまさしく、人間の成長のためのエネルギー・フィールド、すなわち「ブッダ・フィールド」なのだ。

 このブッダ・フィールドと直接つながったスペースを日本に創りたい、これがキヨタカの長年の願いなのだ。
 拙ホームページで何度もご紹介しているように、キヨタカは現在、伊豆修善寺で「リーラスペース」なるものを運営している。Oshoを広く一般社会に紹介するための橋渡しとなる、実験的スペースだ。

 今年も1月15日〜17日のOshoセレブレーションを筆頭に、二月の「手作り瞑想キャンプ」、オーラソーマ、四月のチベタンパルシング、ミーラ絵画グループ、アサンガ瞑想キャンプ、ミラレパ&ヨーコ、五月のコンシャスタッチ、六月のゴパル、七月のワドゥーダ、そして八月のOshoサマーフェスティバルなど、盛りだくさんのプログラムが組まれている。
 そして「Osho2000トリビュート」の始まる年末には、たくさんの人々にブッダ・フィールドを体験してもらうべくプーナ・ツアーを組む。これがキヨタカの1999年だ。やっぱりまだまだ彼は、プーナで楽しく暮らすわけにはいかないのだ。
 この実験に参加してみたい人は、リーラスペース0558-74-1118まで連絡のこと。
 (写真:1月9日ファーイースト前にて)


1月16日 楽の魂

 Oshoコミューンのシタール奏者、スワミ・サンギート・アタサ。
 セレブレーションの季節を迎え、彼の奏でる楽の音は、ブッダホールに、サマーディにと、コミューンのそこここに響き渡る。
 土佐の高知出身のこの男が、どうしてこのようなインドの楽器を弾いているのか。
 そこにはまた長い旅路があったのだ。

 大学でインド哲学を専攻していた1980年、インドを初めて旅行。もともとギターを弾いていたのだが、途中に立ち寄ったOshoコミューンで未知の音楽を耳にし、感銘を受ける。
 83年に再びインドを訪れ、バラナシで師についてシタールを学ぶ。
 85年にオレゴンを訪ねOshoと出会い、その後、弟子となる。もらった名前が、Sangeet Atasa、すなわち「音楽の魂」。
 87年からしばらくプーナのOshoコミューンに滞在する。

 このプーナ滞在中に、Oshoの前で演奏するという機会を得る。
 当時Oshoは荘子ホールで講話を行っていたのだが、ある日の講話の席で、ギタリストのミラレパの代役としてギターを受け持つ。
 アタサいわく、Oshoの前ではみんな天才になるのだという。上手に弾こうというような頭は吹っ飛び、ひたすらリラックスし、楽に演奏できる。それはまるで、自分が演奏するのではなく、Oshoが自分を使って音を出しているような感じ…。
 こうした体験が、アタサの演奏の原点となっていく。

 Oshoが世を去った90年以降、シタールをひっさげ日本での活動が始まる。三重県の伊勢でコンサートをしたのを皮切りに、様々な神社や寺院で奉納演奏。オリジナル曲も次々に生まれてくる。
 故郷の中村市に帰り、地元の神社や母校でコンサートをすると、地元の新聞社やテレビ局に大きく取り上げられる。
 更には高野山で大きなコンサートを開くなど活動の幅を広げ、97年からは海外でも活動するようになる。
 Oshoコミューンで出会った台湾の太鼓団『優人神鼓』とともに台湾の各地で演奏活動を行い、昨98年にはフランスやドイツ、ブラジルなどにも招待され演奏を披露している。

 シタールを独奏するときもあれば、シンセサイザーやドラム、笛やギター、ヴァイオリンなどと合わせることもある。また自身でもバンスリ(竹笛)や和太鼓を演奏する。その音楽はインド音楽というより、シタールを通じて、自らの空(くう)を奏でるという類のものだ。
 「音楽が人を静寂に導くことができなければ、その音楽はただの雑音だ」とOshoは言う。
 アタサにとっても、一番大事なのは瞑想であり、音楽は二番目なのだ。

 シタールを目の前にすると「いったい誰がこんな複雑なものを演奏するのだろう」と思うけれども、いったん楽器に触れ、それが体になじんでくると、あとの操作は手に任せ、自分は内側に入っていき、深いところから音がほとばしり出てくるのだそうだ。
 ところでこのアタサ、一昨年から暇を見てCD製作に携わっている。それが今年の四月に完成するという。リリースのあかつきには、また本ホームページで紹介したいと思う。(写真は1月11日ブッダホールにて)


1月17日 ナゾの人物、シータマータ

 このページは「雑記帳」と銘打っているにもかかわらず、過去の記事をつらつらと眺むるに、どーも、アタサのといいキヨタカのといい、力のこもった端正な作品となっている。ために取材執筆に時間がかかり、どーしても更新が遅くなってしまう。
 そこで今日は趣向を改め、雑記帳にふさわしく、テキストのみで、軽く流してみよう。
 それでは、数日前に会った、ある人物の話。

 ここOshoコミューン周辺には、いろいろ不思議な人々が現れる。今日お話するシータマータもそのひとりだ。
 ことの始まりは、去年の今頃 (正確に言うと一昨年の十二月)。
 ある日本の女性が、コミューンの外で毎朝ミーティングを持っているというのだ。サニヤシンも多数参加しているらしい。場所はコミューンに隣接するOshoティルタ・パーク。
 好奇心にかられた私は、ある朝まだき、そのティルタパークに出かけてみる。すると公園の奥まったところに、いるいる、数十人のサニヤシンたちが、白衣の女性を中心に瞑想にいそしんでいるではないか。

 みんなで静かに坐ること数十分、やがて集会はお開きになる。
 するとサニヤシンたちがその女性のもとにおもむき、ひとりひとり何やらアドバイスを受けている。その女性はと見ると、どこにでもいそうな五十がらみの日本のオバサン。そのオバサンからサニヤシンたちが神妙にアドバイスを受けている。西洋人が多い。オバサンは英語がしゃべれないから、弓道師範のアサンガが通訳をしている。
 そのアドバイスが終わるころ、オレもしたり顔をしてオバサンのもとに赴く。するとオバサン、開口一番、「あんたはここに来なくていいのよ」と言う。あ、やっぱりね〜、好奇心で来たのがバレたか。
 それからオバサン、「あなたはすばらしい魂です」とかのたまうもんだから、ウンウンそうだろう、なかなか人を見る目がある…とか、内心、まんざら悪い気がしない。それで気をよくして帰ろうとしたところ、突如、「でも浮気をしちゃだめよ」と釘をさす。ムム、これは並みのオバサンじゃないわい…。
 じつは小生そのときまさに、さる女性と浮気せんとしていたところだったのだ。(そしてその結果は惨憺たるものだった…。オバサン、見抜いていたか)

 そんなこんなでオバサンと友達になる。こーした人物と友達になるのは、どうやらオレの宿命らしい。そして数日後、オバサン主催で開かれたクリスマス・パーティでは、請われて和太鼓を敲いたりもした。
 オバサンはプーナに住居を持っているという話だったが、その後日本に戻り、何らかのワークをしていたらしい。

 そのシータマータおばさんがプーナにまたやってくるという話はつとに聞いていたが、つい数日前、ジャーマン・ベーカリーの裏でひょっこり出会う。
 やや小柄で、いつものとおり白衣を着ている。特に美人というわけじゃなく、雰囲気的には伊勢のシャルノを思わせるものがある。シャルノとシータマータは通ずるものがあるのだ。いずれも巫女さんタイプというか、神秘の世界から何らかのメッセージなり仕事を預かってくるらしい。

 そのジャーマン・ベーカリーの裏で、ほんの数分の再会だったが、オバサン、へんなことを言う。
 今年はね、東京ドームとかで集会をするからね…。東京ドームはまだ決まってないけど、東大寺は決まってるから。あんた太鼓を敲いてね。
 ふ〜ん、オレが太鼓を…。 
 そうよ、お願いね 、で、太鼓はやっぱり借りてこなくちゃいけなのかな?
 でもさ〜、オレなんかが太鼓たたいたって…。
 あんたはそんなふうに頭で考えなくたっていいの。とにかくたくさんの女たちを喜ばせてあげなさい。じゃね、また連絡するからね。

 と言って、宵闇の中、足早に消え去ってしまった。
 ウワサによると、ニベダノや名古屋のサットプレムたちと、東京ドームでOshobaをやるんだそうだ。
 サットは目ん玉むいてエキサイトしていたが、アタサは「そんなことしたら巨人ファン怒るで」と言っていた。
 待てよ…「たくさんの女たちを」ってどーゆーことだ? 浮気は解禁なのかな?


1月18日 コミューンの食生活−その氈uクロワッサンの怪」

 Oshoコミューンというのは、ひとえに瞑想のために捧げられたスペースである。
 しかるにだ、腹が減っては瞑想もままならぬというのが、よりベーシックな衆生の常であろう。
 そこで今日はコミューンの「食」の話。

 まずは朝食。
 コミューンのいちばん大きな食堂「マリアム」が朝の7時に開く。この時期、プーナの朝の空気は冷涼で爽やかだ。鳥のさえずりの中で食べる朝食には、また何にも代え難い喜びがある。
 今年の朝食での大きな変化は、何といってもクロワッサンの登場だろう。

 このクロワッサン、たしかに今までもあった。しかしそれはコミューンのパン職人たちがたま〜に作るという感じで、常に供給不足。ために、マリアムに並ぶやアッというまに売り切れ、生存競争に敗れたおおかたの人々に著しい欲求不満を惹起せしむるというシロモノであった。
 ところがだ、今回来てみて驚いた。その宝石のごときクロワッサンが、ふんだんに供給されているのだ。さらには、あろうことか、余ったクロワッサンが昼食のテーブルにまで並んでいるではないか!

 じつはこのクロワッサン、外部委託なのである。外のパン屋さんに頼んで、毎日焼いてもらうのだ。
 おそらくは、コミューンの西洋人パン職人が出向いていって、技術指導をしたのであろう。
 というのも、このクロワッサン、なかなかのできばえなのだ。とっても街のパン屋の仕業とは思えない。

 オレもインドではいろんなところでクロワッサンに挑んだものだ。首都ニューデリーでの滞在が長かったから、高級住宅街の洒落たパン屋で買ってみたりとか…。しかしどうもいけない。三日月形をしたただの食パンというのがほとんどだ。
 ところがコミューンのクロワッサンは、ちゃんと、パイみたいに層を成している。サクサクしていて、うまい。
 小麦粉の違いからだろうか、日本のみたいにフワフワはしておらず、どっしりした量感がある。だから小食の人なんか、これひとつで立派な朝食になるだろう。
 毎日安定して多量の注文があるから、パン屋のほうも本腰を入れて、しっかり作っているようだ。

 とゆーわけで、今年から、私の朝食テーブルには、必ずクロワッサンが並ぶという次第になったのである。
 あとはゆで卵が一個。これも話せば深〜い由来があるんだが、まあ、またの機会に譲ろう。(じつは今、朝飯前なのだ…。あ〜腹減った)
 それから果物がひとつ。これはだいたいバナナ。
 なに? バナナなんて珍しくない? いや、これがうまいのだ。日本のスーパーに並んでるのとはわけが違う。(日本に来るバナナは、大きくて見栄えがよくて長持ちしてウマくない品種だという話を聞く)
 それから飲み物をひとつ。これはジンジャーティーとか、ハーブティーとか、チャイ(ミルク入りインド茶)。

 こうしたものをトレーにとって、出口で会計を済ませ、屋外の食事エリアで食べるわけ。
 気持ちいいぞ〜。
 マリアム食堂は朝の九時に閉まってしまうから、それに間に合わなかった人は、Oshoカフェに行くことになる。
 ここにもちゃんとクロワッサンが用意されているから安心。
 あ、もう九時半だ。とゆーことは、今日はOshoカフェで朝食だな。


1月19日 Celebration!

 1月19日。一年で最大の祭、Oshoセレブレーション。
 Oshoの九回喜(!)だ。

 今、午前11時50分。コミューンのメインロードはやや閑散としている。
 というのも、さきほど来から、ブッダホールでサニヤス入門セレブレーションをやっているからだ。

 10時半から始まったのだが、まだまだ終わる気配がない。百七十人ほどの人々が新たにサニヤシンになるらしい。
 今、「サニヤスネット」のスワミ・フィラクがブッダホールから帰ってきたが、「ものすごい人、踊ってたらぶつかるよ」と言っている。
 ミュージシャンも三十人近く侍(はべ)っていて、この一時間半、ノンストップでにぎにぎしくセレブレーション音楽をやっている。

 右側の写真は、さきほど、ホール後方にある照明台によじのぼって撮ったもの。普段の入門セレブレーションの数倍の人出で、その熱気もものすごい。
 いちばん上に写っているのがOshoのポーチで、その前に座っている白い人々からサニヤスをもらう。その手前に入門者たちが座っている。楽士たちはその左側、画面の外だ。その周囲をサニヤシンたちが取り囲み、音楽にあわせて踊っている。後ろ側にいる人々はおそらく何も見えないだろう。でも飽くことなくダンスに興じている。

 Osho Japanのツアーから四人が入門するなど、知り合いの日本人も何人か新たにサニヤシンになる。
 サニヤシンになりたいなら、この日を逃すという手はない。
 プーナのブッダホールで、Oshoの命日に、何千ものサニヤシンたちに祝福されながら、ライブミュージックでテイク・サニヤス ― 。これは一生もんの思い出だ。

 思い起こせば十三年前、ところは東京・目黒。今は無きイア瞑想センターの、ひたぶるにウラ淋しい一室で、数人の友に囲まれ、ヤスヒデからマラをもらい、カセットテープの音楽で踊ったもんだが、その我が身と比ぶるに、ずいぶんと違うもんだなあ。これも過去の因縁か、はたまた積善のたまものか。

 次回の「Osho 2000 Tribute」(12月11日から1月19日まで40日間のノンストップ・セレブレーション!)を控えて、今年のセレブレーションは少々静か目だが、でもやっぱりOshoセレブレーション。
 昨日から、とびきりの「ハレの日」気分だ。

 というわけで、今日は宴もたけなわのOshoコミューンから実況中継でした。


1月20日 Oshoba

 今日は音楽の話。
 言うまでもないが、1月19日のホワイトローブは、一年でいちばん盛り上がる。
 照明とか紙吹雪とか舞台装置に様々な趣向が凝らされるが、楽士たちも一年でいちばんリキが入る日である。
 そして昨日のホワイトローブ音楽は、40人にものぼる楽士たちによる、七年ぶりのOshoba「オショーバ」登場であった。(写真右)

 なんだこのOshobaって?
 その裏には、Oshoと音楽をめぐる、深い因縁があったのだ。

 Oshobaと言えば、パーカッショニストのニヴェダノ。Osho講話の中に二番目に多く登場するブラジル人サニヤシンだ。(どうしてそんなにたくさん登場するかというと、Osho晩年の瞑想指導のとき、合図のドラムをたたく役目をしていたから)

 ときは1989年春。Oshoの体調が思わしくなく、講話がビデオで代用されていたときのことだ。
 当時、Osho講話時の音楽リーダーをしていたのが、アメリカ人スワミのミラレパだった。彼の得意はカントリーっぽいポップな音楽なのだが、もはやマンネリ化し、パワーに欠けるものがあった。
 そんなある日、ミラレパにかわってニヴェダノがリーダーとなり、打楽器だけの音楽をやって、ホールを大いに盛り上げるのである。
 翌日、Oshoは秘書を通じてその音楽を誉め、今日からホールに現れると告げる。以後、Oshoは毎日ブッダホールに現れ、講話を行うのである。そしてこの打楽器中心の音楽は、キーボードを一台加え、以後ずっと続くことになる。
 二ヶ月ほどたったある日、講話の後、Oshoが世話係のシュンニョに「あの音楽は何なの」と聞いたそうだ。シュンニョが「あれはブラジルのサンバです」と答えると、Oshoは「それならこれからOshobaと呼べばいい」と言ったのだという。
 これがOshobaの由来だ。結局、Oshobaは通算で十ヶ月、Oshoが世を去るまでブッダホールで演奏されることになる。

 さてこの「天才パーカッショニスト」ニヴェダノ(写真左)。ブラジルに生まれ、十九歳でニューヨークに渡り、ジュリアード音楽院やハーバード大学で打楽器を学ぶ。また、在学中から小沢征爾下のボストン交響楽団や、ボストン・ポップス管弦楽団、ウェザーレポートなど全米屈指の楽団の一員として活躍し、またパット・メセリンやサンタナ、ジョン・マクラビンらと共演するなど、若くして華やかな舞台に登場。
 しかしながらこうした音楽活動に飽きたらず、いくたりかの導師のもと瞑想を体験する。そして1981年、Oshoを知るに至って、いっさいを捨て去りプーナに渡航。コミューンに足を踏み入れた翌日から、Oshoのためにパーカッションをたたき始めたという経歴の持ち主だ。その彼にとって、Oshobaとは「Zen Music」なのだという。

 このニヴェダノを中心とするOshobaグループが、今春、日本各地でOshobaを演奏する。
 参加するのは、ニヴェダノのほか、ミラレパ、サットプレム、ヨーコ、ニーラ、グテイ、ニルグーノといった楽士たちで、いずれも昨日ホワイトローブのステージ上に立った豪華メンバーだ。(写真右・左側がミラレパ、右側がサットプレム)
 時期は四月〜五月。場所は、東京のOshoサクシン瞑想センター、伊豆修善寺のリーラスペース、四国足摺岬など。
 彼らはもっとたくさんの場所で演奏したいという意向なので、関心のある人は、名古屋のサットプレム(alto@he.mirai.or.jp)まで問い合わせのこと。
 このツアーについては、詳細が決まり次第、またお伝えしたいと思う。

 またニヴェダノは母国ブラジルで、アマゾン源流の広大な土地(四万ヘクタール)の生態系を守るNGO活動「アルトパライソ・エコロジー協会」の会長も務めている。興味のある人は、当協会の日本語サイトを参照のこと。
 (写真はいずれも1月19日のホワイトローブの際、撮影したもの)


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